「笑い男」『ナインストーリーズ』サリンジャー
オンバはかすかに歪めたその小さな顔をうつむけながら、デュルファンジュ父娘がブラック・ウイングを殺してしまったことを打ち明けた。なんともいえない、胸を引き裂くような最後の悲しみの喘ぎが笑い男の口から漏れた。そして鷺の血の瓶に弱弱しく手を差し伸べると、それを握りつぶしてしまった。今や、わずかに残っていた彼の血も、細い筋をなして彼の手首をつたって滴り落ちた。彼はオンバに顔をそむけるように命じた。オンバは啜り泣きながらその命に従った。それから笑い男は自分の仮面を剥ぎ取った。それが彼の最期だった。そしてその顔が、血に染まった地面に向かってうつむいたのである。
2005年09月23日 achieve notes トラックバック:0 コメント:0
『人間の土地』サン・テグジュペリ
人間を、十九時間で、干物にしてしまう西風が吹いている。ぼくの食道は、まだしめきられてはいないが、こわばって痛い。何か掻きむしるようなものが、もうそこには感じられる。やがて話に聞いている、あの咳が始まるはずだ。ぼくは待っている。舌が邪魔になる。それよりもっと重大なのは、ぼくにもうまぶしい斑点が見えることだ。この斑点が、炎に変わるときが、いよいよぼくの倒れる時だ。
ぼくらは、足早に歩く。ぼくらは、夜明けの涼しさを利用する。日が照りだしたら、ぼくらはもう歩けなくなると知っている。日が照りだしたら……。
ぼくらには、汗をかく権利はない。それどころか、ぼくらには持つ権利さえないのだ。この涼しさは、湿度十八パーセントによる涼しさでしかない。この風は、砂漠から吹いてくる。そしてこの偽りのやさしい愛撫の下で、ぼくらの血液は蒸発してゆく。
最初の日、ぼくらは葡萄を少々食べた。三日以来、オレンジが半分、ケーキが半切れ。たとえ、食物があったとしても、ぼくらには、それを噛む唾液をどこに見いだすだろうか? ただしぼくに飢えはすこしもない。感じるのは、ただ渇きだけだ。そしてどうやらぼくは感じる、今後は渇きよりも、渇きによる結果のほうを、よけい感じるだろうと。このこわばる喉。この石膏の舌。この口の中のむずむずした気持ちと、たまらない味。これらの感じは、ぼくにとって新しいものだ。たぶん、水がこれを癒してくれるだろうが、ぼくにはこの感じと水というその救済法を結びつける理由がまったく自分の記憶にはない。渇きはいよいよ一つの病気にこそなってきたが、いよいよ一つの欲望ではなくなっている。
どうやらぼくには、泉や果実が、たいしてつらいイメージを、自分に与えなくなっているらしく思われる。ぼくは、オレンジのあの輝きを、忘れている、自分が、やさしい愛撫を忘れてしまったような気がするのと同じように。すでにぼくは、ともするといっさいを忘れてしまっているのかもしれない。
ぼくらは、腰をおろした、だがまた出かけなければならないのだ。ぼくらは一気に長く歩くことはあきらめてしまった。五百メートル歩くと、ぼくらはくずおれてしまう。そして寝ころぶことが、ぼくには非常な喜びだ。だがまた歩きださなければならないのだ。
景色が変わる。石がまばらになる。いまぼくらは砂の上を歩いている。前方二キロの所に、砂丘がある。その砂丘の上に、矮小な植物の斑点(しみ)がいくつかある。鋼鉄製の鎧より、ぼくには砂の方が好きだ。これは亜麻いろの砂漠だ。これはサハラだ。どうやら自分に見覚えがあるような気がする……。
いまでは、ぼくらは二百メートルでへたばってしまう。
―――どんなことがあっても歩こう、ぜひあの潅木の所までは」
この限度は、法外だった。ぼくらは八日後に熱風号をさがすために、自動車で自分たちの足跡をさかのぼって調べたが、この最後の脱出の試みは、八十キロだった。このときぼくらは、だから二百キロ近くを歩いていたわけだ。どうしてこれ以上ぼくに歩けよう?
昨日、ぼくは希望なしに歩いた。今日は、希望がないなどという言葉までが、その意味を失っていた。今日、ぼくらは、歩くから歩いているのだった。昨日、ぼくは、オレンジの林の天国を、夢に描いた。ところが今日、ぼくには天国など、存在しない。ぼくは、オレンジが存在するとさえ信じない。
2005年08月23日 achieve notes トラックバック:0 コメント:0
『人間の土地』サン・テグジュペリ
星が一つ、早くも瞬きはじめていた。僕はそれに眺め入った。僕は思った、この純白の地表は、ただ星々の前にだけ、幾千万年以来捧げられていた、澄んだ空の下に広げられた汚点(しみ)一つない卓布(テーブルクロス)。そのとき、ぼくはこの卓布の上、自分の足元から二十メートルほどの所に、黒い一つの石を見いだして、何かある大発見でもしたときのように、心臓に衝撃を感じた。
ぼくは三百メートルの高さに積み重なった貝殻の厚さの上に立っていた。このおびただしい累積全体が、断乎とした証拠となって、こんな所に石が存在するはずないと否定しているように思われた。珪石が、あるいはここにも、地下深い所になら、地球の緩慢な消化作用の結果として存在するかもしれないが、それにしても、このあまりに新しい表面へまでどんな奇蹟がそれを持ち上げたのだろうか?むねをどきつかせながら、ぼくはその自分の発見物を拾い上げた。見るとそれは涙の形をした、金属のように重い、拳大の黒い一個の石だった。
2005年07月23日 achieve notes トラックバック:0 コメント:0